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スピリチュアルと宇宙科学は交差する

スピリチュアルと宇宙科学は交差する

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スピリチュアルと科学技術(宇宙工学、自然工学、宇宙科学、量子力学、などなど全般)は互いにリンクしているものと考えることができると思います。

現実と理想という概念に似ているかもしれません。

理想がなければそれを現実に体現できません。潜在意識が物事を作り出しますが、それはそういった実際に存在していないように思われる思いや、想像、理想が行動を促しているからです。

行動の”動機”が目に見えないのに存在する一つの例です。意識的な事象として存在してるのです。

私たちは基本的なことを勘違いしています。「無」というのは何もないということであるならば、それが物質的か意識的なのかは関係ないはずです。

非現実的というのはどういった意味なのでしょうか?

無というのは、思いや心、理想、想像などの意識、それすら存在していないということ。そうであるならば同時に、現実的な事象は目に見えるものと、目に見えないもの両方にあるということです。

本当に存在しないというのなら、”意識”の代表「愛」すらも否定することになります。

目に見えないものが存在”する”ということはむしろ現実的であって、目に見えないものは存在”しない”というのは非現実的なのです。

”物質”という先入観と思い込みを取り払って、世の中に存在する事象の幅を広げる価値がこれからの未来求められます。

目には見えないのに、確認できないのに、どうしてその思いはあなたの中に生まれるのでしょう?

あなたの心の中にめぐる理想や想い、想像は誰にも見えないのに否定できません。存在しているからです。

証人はあなた自身です。

ちょっとややこしい言い方をしてしまったかもしれませんが、それと同じようにスピリチュアルも同様です。

スピリチュアルと工学技術が明確にクロスする時代が訪れれば、今まで精神世界と表現されていたものを現実的概念に落とし込むことが可能になります。

そう、「意識の科学」になるわけです。

世の中の全て、宇宙の中で繰り広げられている事象には、すべて理由があり科学的なあらゆる側面から解明できるはずということが見えてきます。

現代の科学レベルで解明されていないことは無量大数ほどあったとしても、それは存在しない証明にはなりません。

太陽の周りを地球が周っているということも昔は非現実的なものでした。
それが今や常識です。

また、目に見えないはずの音、電波を使った工学技術は既に存在しています。インターネット、ラジオ周波、電気信号が映像に変換されるテレビなど。

大昔の人から見れば私たちは魔法使いか超能力者です。

意識の科学が現代テクノロジーの基礎のひとつになる日はそう遠くないかもしれません。

そうなれば、意識的な側面からアプローチできる工学装置、逆に工学装置から意識にアプローチすることもできるようになるかもしれません。

悪いことを考える人や、悪い意識を察知した工学装置によって、その時点で是正を促したり、取り締まることも不可能ではなくなる可能性が考えられます。

そうなれば世の中はどんどん、不正は暴かれ抑止され、犯罪の激減によって浄化され、本質的な社会システムを構築できるようになるでしょう。

もちろん、現代の常識では信じられないことですね。

そう言った意味で宇宙工学を突き詰めれば、スピリチュアルといった言葉で表現される様々な”不思議”な出来事や概念は科学になり、社会の変革を促すツールになりえます。

こうなれば、もはや”形”としての宗教は存在できません。

宇宙の仕組みという表現でもいいと思います。それは人間が存在する意味や目的をも解明することにつながる可能性があります。

なぜならば、それは宇宙の本質を科学で知るということになり、宇宙の真理を科学で知ることにもつながっていくからです。

それを知ってしまえば、信じるべきものがあるとすれば、それは外にある作られた概念ではなく、自分自身が身に着けた意識的な科学の知識から導かれる「気づき」ということになります。それは自分自身の哲学や信念ともいえるでしょう。

個人的な本質・・・。自分という存在が意識によって宇宙という世界につながっているということを知るようになります。

逆に、スピリチュアルを探求していれば、宇宙工学を無視できなくなります。結局、対立していた多くのことが入口が反対なだけだっということに行き着くはずです。

現段階で解明されていることが全てではないことは皆さん承知の通りだと思いますが、だからこそスピリチュアルが、物事の本質への探究心を刺激し、自己啓発にもつながっていくひとつのツールとして多方面でいろいろな形や概念として存在しています。

科学で解明できないからこそ大切なことを発見するための哲学が必要になります。

スピリチュアルという言葉や概念は一種の哲学です。思考を止めて投げ出さないようにするための器の役割も持ちます。解明されていないことや受け入れがたい事実や事象をとりあえず置いておくのです。

現在の社会において、そういった不思議な出来事をただ無視し、何も考えることがないままでは、現時点で科学的に解明されていることだけが現実だと思い込み、無機質で、様々なことの成長が抑制され、視野がせまくなり、明日に続くはずの現実の中で多くの問題を表面的にしかとらえることができなくなってしまいます。そうなれば、社会も人も文明も進化できません。問題の原因を解明することなく、問題の対処を永遠にしているようなものになってしまうからです。

同じことの繰り返しということですね。コップ一杯の水は栓を締めればこぼれることなく満杯ですが、栓を締めなければこぼれ続け、それは満杯でなく無駄に溢れているということになり、永遠とすくい続けるということです。

栓を締めれば済むのに、問題の本質をみていませんよね。

そうならないようにするための科学で解明できない事象の倉庫みたいなものかもしれません。

少なくとも現在においては、明確な答えを断定的に主張するのがスピリチュアルではないですが、解明できないことだらけの世の中だからこそ、生まれた概念であり言葉です。スピリチュアルを探究することは問題の本質を発見する力を養えます。

最終的には宇宙工学に置き換わるでしょう。解明されればそれが知識になるのは当たり前ですもんね。

多くの科学者、天文学者、考古学者、あらゆる研究者たちが、意識的な知識と、物質的な知識は交差するというところにいつの日か行き着くはずです。

いや、もうすでに気づいてる多くの工学博士はいるでしょう。

そのことを受け止めるポテンシャルを私たちは持たなければなりません。

これはエンターテイメントではありません。

心優先が基本。

最後に一つ言えることは、意識的な知識を工学に利用したテクノロジー文明はかならず、精神的な啓発が深められているはずだということ。

そうでなければ、それらのテクノロジーはただの破壊兵器ににしかならないからです。赤ちゃんが火を使えば、恐ろしいことになるのと同じと言えます。

文明は、文が明るいと書きます。理明とは書きません。文とは文化の文、すなわち心、精神性の体現とも言えます。

理が暴走した文明は文明としてはなりたちません。行き着くのは破壊だけです。