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自然とつながる

地球と社会と個人の暮らし。世界は個人の暮らしの集合でできている。

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ウソ(建前とも言える)で環境活動やエコフレンドリーなマーケティングをすることをグリーンウォッシングと呼ぶのだそうです。造語らしいのですが日本語ではどんなニュアンスに訳せるのでしょうか。

 

検索:グリーンウォッシング

 

その話を聞いて、いろいろと考えさせられました。

 

前々からそういう企業のウソなどは感じているし、罪悪感からくる環境活動なのかな、なんて解釈したり、そもそも、それエコじゃないよと突っ込みどころ満載なものも度々出会います。

 

今さら感ではあるし、感じている人はきっと感じているし、昔も今もこれからも、そういうことはしばらく続くのだと思います。

 

要するに、矛盾しているということですよね。心も、哲学も、軸もなにもないということですね。どんな企業も商品もグリーンウォッシングと言えるグラデーションのどこかに位置しているとは思うので、明確に白黒つけるのは難しいと言える気もします。

 

生産活動と言うのはそれ自体も環境に負荷はかかってますからね。

 

エコフレンドリーなビジネスをすること自体は別に問題ないと思いますけど、貪欲にできることでもないと思うんです。相性はよくないですし、そもそもビジネスとして成り立つエコフレンドリーってそんなにないですよね。

 

環境をテーマにしたビジネスって、欲を抑えて意図の純粋性を保ちながら行う流動的なものでないと邪悪性を帯びかねません。それで食べていくのではなくて、奉仕精神的な志でやらないと、我欲にまみれた宗教団体みたいになる恐れも…。

 

極端に言えば、環境を壊さないと、病気になってくれないと、ビジネスが成り立たないというような、本末転倒な状態に。言い方は悪いですが、悪者がいるからヒーローが成り立つという状態は本質的ではないように思います。

 

もちろんプロセスにおいて外から見れば、そんな風に見える人も企業もたくさんあるのが自然なのですが、もし、それらによって顕示欲を満たしているような状態に陥ってしまったら、さあ、大変。あなたのお家はどこですか?状態になってしまうわけでございます。

 

自分を見失わないということが大切ですね。私も気を付けようと自分を戒めます。

 

「環境よくなったね、さよなら」、「健康になったね、さよならおめでとう」、ぐらいにドライじゃないと。

 

また、工業国なんかは特に、環境を考えるのを前提にしていない産業の方が多くて、人の煩悩を刺激して消費のクリエイティブをしないと成り立たないビジネスが圧倒的にひしめき合っています。要するに諭吉さんの流れが悪い事業を国も企業もやらないのです。当然と言えば当然なんですけど。

 

だから、環境ビジネスというものが成り立つという皮肉さもあると思うんです。そもそも誰かが稼がなければ環境団体にも寄付は集まらないし、高額なオーガニック商品も誰も買えないということを考えてしまうわけです。

 

それらのお金はどんなふうに生み出されているのかを考えると、眼をそむけたくなる現実にぶつかります。

 

 

ましてや、贅沢に道楽にお金を使えるほどに稼げるエコフレンドリービジネスはないです。あるなら教えてほしいです。ウソならたくさんあると思います。意地悪でごめんなさい。

 

残念ながら地球に調和した暮らしを求めれば求めるほど、経済的にはかなりシビアな状態になっていくものなのかと思います。一部を除いてですけれど。

 

いたるところに矛盾が見えてくるので、とにかく「なるべくしないようにする」という思考になっていくんですよね。買うものもかなり限定的になっていきますし、それは仕事の選択においても多くのハードルになります。

 

流されてしまえばいい、そして何も変わらない堂々巡りの世の中に巻かれてしまうのは、それはそれで楽です。でも私、それなりに本気なんです。

 

 

それはこの調和していない不循環な社会をベースに考えるからなわけなのですが、この社会に生まれた以上、戸籍捨てて山籠もりするわけにもいきません。いや、本当の意味での世捨て人はやっているかもしれませんが、それをやるに至るほどにはまだ私もやさぐれてはいません。

 

将来は自然豊かな場所に土地を購入して、面白い生活をつくっていきたいと思っているのですけれどね。今はまだ都市型エコフレンドリー生活をコンプリートしていないし、勉強も足りていないし、仕事も中途半端ですし。

 

話が脱線( ゚Д゚)してしまったので戻しますが、

 

だから、社会そのもの、国の在り方に変革を求めていかなければならないということになります。国は何を守るのか、何を支えるのか、何を止めるのか、何を始めるのかがとても重要です。

 

個人の責任とつっぱねられてしまえば、地球のことを考える余裕すらなくなるのは当たり前で、誰も責めることはできないと思うんです。

 

北欧のように税金を高くして福祉を充実させることが、断片的にはプロセスにおいて現実的なのかもしれませんが、北欧って、とても牧歌的で情緒的な暮らし方に幸せの基準があるんですよね。

 

今の日本全体がそういうのを求める状態になっていかないと実現は難しいのかなと思います。

 

田園型生活を目指す人が多くなったという記事などもよくみかけますが、そうはいってもマイノリティの中のマイノリティだと思います。軸と言う部分では思考がネイチャーフレンドリーになっているかはまた別の話でもあるからです。

 

トレンド的な中に顔を出すこともありますが、”おしゃれ”と言うような表面的なものでしかないのを感じ取ってしまうこともあります。

 

昔の日本はそうだったという人は多くいますが、皮肉な話です。大切な部分は守りながら変えるべき部分は変えていく、そういうバランスを失ってしまったんだと思います。

 

ビジネスと自然の調和って限りなく難しい課題と言えます。いや、むしろ共存できないものでもあるかもしれません。

 

例えば、オーガニックが当たり前になれば、もはやビジネスでもなんでもなくて、当然のように共通の価値観として根付くわけですよね。

 

ここでもう少し突き詰めて考えてみると、そうやって自然や地球を強く意識して世の中を作っていこうとすると、今あるビジネスのほとんどが必要のないものになるんです。必要がないというか成り立たないという方が近いのでしょうか。

 

本質的なものというのはとても少ないので、小さなカテゴリーの中でたくさんの企業がひしめくことになるわけです。なので、ここに今の社会の延長上で考えることの不毛さが見えてきますし、こんな風に少し考えただけで世の中の欺瞞に触れてしまいます。

 

根本的な部分、人類全体、社会全体、国全体での方向性や目的が一つにならないと、決してすべてのビジネスが環境に寄り添うことを前提としたものになり得ることはないということになります。ビジネスという概念もちょっとテコ入れが必要になるかもしれません。

 

こういう話をすると話がどんどんズレるので止めます。経済のシステムや社会システムの変革の話はそれはそれは、ぐちゃぐちゃに世の中に入り乱れていますから私にはキャパオーバーです。

 

もっとシンプルでいいじゃんって思うのですが、私の価値観に大衆性はあまりないみたいなのでポップに演出している(つもり)の、このwebサイトで語るのは止めておきます。ぶっ飛んでるのかな、たぶん(^▽^)、でも先人はちゃんといますよ。

 

というわけで、下記の書籍あたりは抵抗なく受けいれられるお話なのではないかと思います。

 

「公益」資本主義 英米型資本主義の終焉 (文春新書)

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ここからは、私自身がパーソナルな課題として考えていることとか、毎日の暮らしのことを綴ります。

 

地球と調和して暮らすって、結局のところ、泥臭いことの積み重ねだと思うんですよね。その泥臭さを自分なりにクリエイティブするのがエコフレンドリーな生活なのかなと。

 

私はかなり真面目に考えたりするのですけど、私は優しくあれているんだろうかと、暮らしを見つめ、じゃあ1個人でもできることってなんだろうと突き詰めて考えたりもします。

 

個人の暮らしの集まりで世の中はできているのだから、その個人の営みをおざなりにして、社会問題や環境問題をみても対症療法にしかならないよねって自分に問いかけるのは日常茶飯事です。だから、消費活動も質素です。ただの貧乏とも言いますけど(^▽^)/

 

 

社会活動とかコミュニティとか、誰かとつながるってことはもちろん大切だと思いますが、つながる前にできることってあると思うんです。

 

つながることでやった気になって、ごまかして満足してしまうようなことだけは避けたい。実際、そういうことに出くわして失望するのが怖いのです。何も進んでないじゃんってことになるのは本当に恥ずかしい。会議などもそういうの多いですよね。

 

たとえ一人でも淡々とできることをしていこうというのをモットーに日々生きています。その先につながりがあれば理想です。

 

私が内向型で感受性が強すぎるというのもあるのですけどね。それと、私自身が抱えている問題や境遇もあるので、いきなり全部を解決することが難しいですし。

 

 

全然足りないと思っていますし、できていないこともたくさんあります。それでも、些細なことから変えていかないとと、月並みですが思うので見つめる先は暮らしのディティールが主です。

 

「きれいごとだよ」と考えることをやめてしまえば楽ですが、人間として地球に生まれた以上、地球ありきで物事を考えて生きたいと思うんです。

 

みんなそうだし、社会はそうだし、それが当たり前だし、ま、いっか…と思えれば楽なのですが、自分の中で無視できないと言うことは、それに取り組みなさいというメッセージなのだと受け取っています。

 

今までだって考えもしないようなことは、きっとただ通り過ぎていくだけだったはずだし、通り過ぎないのだから向き合うしかないのです。

 

目の前で泣きながら放置されている赤ちゃんを無視できる人はいないと思うんです。そんな感覚です。

 

そもそも暮らすって少なくとも環境に影響を与えながら生きることなので、その影響を考えることを止めることは私にはできなくなったんです。

 

現代の暮らし方がスタンダードな社会や町や家に生まれ、その社会に適応することが常識とされた中で必死にもがきました。でも、適応することはできなかったんです。そもそも適応するってどういうことなのかすらわかりません。

 

この社会が自信をもって誇りをもって適応すべき社会だと胸を張れる人がいるのかも疑問です。どこかみんな病んでいるし、むしろ病んでいるということが人間として健全なのかもしれません。不健全に慣れたら不健康なわけですから。

 

世の中のゆがみに気づいてしまったし、私自身が変人でもあったのですね、きっと。

 

 

ないものをあるかのようにみせかけたり、

 

しなくていいことを、

しなければならないことのようにふるまうことが私にはできませんでした。

 

 

0にするのは無理かもしれない、でも100を99、99を98にはできるよね、という気持ちでいます。

 

だから、正面から見つめたくないことでも、開き直らずに考えます。考えることを止めたら試合終了です。ある意味ではとても苦しい作業です。権力や固定概念に屈しないようにするためのおまじないのような、瞑想のような時間でもあります。

 

暮らしの些細な、ともすれば、とるにたらないような一コマにおいてもを循環を意識してみたり、環境に負荷のかからない暮らしの道具や営みを探して、実践して暮らしの当たり前にしていけるようにルーティン化したり。

 

私は人生の在り方や暮らし方や、生き方において、自分が何を達成したいのか、実践したいのか、実践しようとしているのかをリスト化して、日々書き足しているページがあります。

 

ほんとにくだらないことから、少々手間のかかること、暮らしの小さなことから、ちょっぴり大きなことまで、「調和、自然、優しさ、本質」、というキーワードが折りたたまれている世の中の様々なものを探したり掘り返したりして、メモして自分の暮らしに加えていくという作業です。新しい場所ではなく、昔からある場所にその多くのヒントは隠れています。

 

その一部をこのサイトに置いている感じなのですが、落とし込めていない部分がたくさんあります。(さぼっているともいう(*’ω’*))

 

いつか、このサイトでもそのリスト化しているページを共有しようと思っているのですが、特に難しいことは何ひとつなかったりもします。でも、達成できていないことも勉強できていないこともたくさんあって、まだまだ未熟者です。

 

それでも、書き足してリスト化しているとイメージがわくので、暮らしが現実的に体現されやすくなります。一歩ずつ、自分のペースで変えていければよいのかなと思っています。

 

そんな私にこれからもお付き合いくだされば嬉しいです。