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身体によい食べ物という幻。自分の身体を知っているのは自分だけということ。

世の中には体に良い食べ物という意味で、様々な情報が溢れています。栄養学においてもあるときまでは良いとされていたものも、今は否定されていたり、まるでなかったかのように随時書き換えられ更新されている状況です。

何を食べれば体に良いのかという情報をやみくものに追うのは、心を惑わせ、情報疲れで精神的に疲弊させることにもなりかねません。

 

身体によいものとされたからと言って、毎日同じものを食べれば時に毒にもなるし、病気を引き起こす原因にもなったりするのです。

 

栄養のバランスを考えて食べることは大事とされますが、毎食バランスよく食べることに気を使うことも本来は必要がありません。

 

本質的なことは、身体が何を必要としているのかは本来、身体が知っているということ。その時々で身体に必要なものは各々違い、季節、環境、年齢、活動、体調、月の影響、土地の空気、妊娠、精神状態、そのほか様々な要因によって変わります。

その時々というのは、5分単位であるかもしれないし、一時間単位であるかもしれないし、数日単位であるかもしれないのです。

 

そのくらい人間の体は複雑に見えて、必要なものをシンプルに得ることができる能力がある生物であるし、いや地球上の生物は本来そんな風に創造されています。

 

今はその力をなくしているか、眠っていることもあるかもしれないですが、人は無意識に食べたいもの、食べたくないものを感じて、それに従った経験は誰にでもあるはずなんです。

 

本来は、一日の間に多くの栄養素を補う必要はなく、長期なスパンで必要なものを身体がとりこめていれば健康は維持されます。本来はとても単純なことで、栄養学というもので人間の幸せや健康は維持できると考えるのは傲慢かもしれません。

 

自由に”食べたい”と思うものを素直に食べていれば健康は維持されていた時代や文化が太古の地球にはありました。それは、とてもシンプルにそのまんまの何も汚染されていない大地の恵みを素直に享受できていたからです。どんなふうに調理するのかはもはやほとんど関係がありません。

 

美味しさや、見た目に工夫を凝らし、味わうことで心も喜び、生きているという幸せを感じることができるのが料理です。暮らしのエッセンスに過ぎないのです。

 

現代の問題は、食べたいなと思うもののレパートリーにジャンクなものが多く含まれているか、もしくはほとんどそれらで埋め尽くされているということ。残念ながらそれらには意図されたものも多く含まれているようです。

 

素朴なものに身体が反応できていれば、まだ不幸中の幸いかもしれませんが、脳を侵され、人間の体を壊してしまうものを美味しいと感じてしまうようになっている人も多くいるでしょう。時にはそういうものも嗜好品として楽しむのも良いですが、

それが日常になってしまえば健康はどんどん侵されてしまいます。

 

健康のために食べるというより、身体が喜ぶから食べるというシンプルな意識で大地の恵みを享受出来たら、どんなに楽で楽しいかと考えたりしているのですが、結果、私は何が体に良いのかを情報として追ってはいません。

 

時に自然に舞い込んできた情報に素直に身体が反応すればそれに従うこともありますが、それを盲目的に常用したりはしないし、心が喜ばないならスルーします。

 

どんな国にも伝統的な食文化というのはあると思いますが、歴史が深いものほど素朴でシンプルで優しい料理が多いように感じています。

 

そんなものの中から暮らしを彩る料理にありつけたら幸せだし、心も体も喜ぶだろうなーと思うのです。日本の和食もその一つだなって思います。

 

素材そのものをシンプルに食べる調理が多いし、私は基本的に菜食の料理を食べるのですが、そもそも意識せずとも菜食が多いし、菜食にアレンジもしやすい料理が多くあります。

 

食べないということも時に選択肢になります。プチ断食も習慣のようになっていて、食べたいときは食べるけれど食べないときは全く食べません。

 

食べないことで老化が遅くなったり、サーチュイン遺伝子にスイッチが入ったりなんて研究論文もあります。

細胞が自ら修復を始めたり、デトックス効果が期待出来たりと、いろいろと健康でいるための要素をバックアップしてくれるみたいで、それは実感として、体感としてあります。

体調が悪い~ということが殆どないのも、身体がリセットできる時間を作っているからなのかもしれません。

 

基本的に私は毎日三食なんてことは考えないし、一日一食なんてことは日常茶飯事ですが、これも厳密に何かを決めているわけではなくて身体が求めていることに素直に従っているだけなので、苦痛に感じることもありません。

 

買い食いして、誰かと一緒にごはんを愉しむこともあるし、食べることを目的というよりコミュニケーションを目的として食べていることもあります。

 

そんな、様々なシチュエーションが暮らしの中にはあって、複雑に考察すればいろんな意見が飛び交いそうですが、シンプルに身体に従うと結果的に毎日の食に一定なものは何もなくなります。

 

何もかもがバラバラになっていきます。時には無性にキャベツが食べたくなって、キャベツばかりなんてこともあれば、豆料理が食べたくなって毎日ということもあるけれど、しばらくすると食べなくなって、別のものを食べたくなります。

 

今日はこの料理を作ろう、今頭の中にあるレシピで今日食べたいものはこれだから、これを作ろうと思えばそれを作って食べる。そのバリエーションが多ければ多いほど、暮らしは豊かになっていくと同時に健康にもなっていくんだろうと思います。ただ、そのレパートリーが素朴なものである方が身体は健康でいられます。

 

一番ベストなのは自分で育てている野菜をその都度、自分のタイミングでもぎってパクパク食べていれば、病気になることなんてないということ。

 

・・・朝起きて、自分が世話している庭を散策しながらおもむろに実った野菜や果実を口にする。現実的にそんな暮らしにどこまで近づけることができるかがこれからの課題ですね。

 

全体としての課題になれば理想ですが、社会も人も大まかに二極化していく流れがあります。私はやっぱり農的な暮らしをベースに進んでいきます。

 

 

 

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