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自然とつながる

生きるための営みと仕事を曖昧にしたい

菜食料理

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生きていくということは、命を繋いでいくということですよね。

命を繋いでいくということは、日常の積み重ねということになる。

 

で、その日常を積み重ねていくことの中に、働くということがあるじゃないですか。

その働くということをお金を稼ぐための労働だと捉えたくないというなんともわがままな奴が私です。

 

言葉が足らないと誤解されそうなので、付け足しておくと、働きたくないと言いたいわけじゃなくて、生きる営みに直結する日々を季節と共に文化的に過ごしたいということなのです。

 

一生懸命にやる何かも、がむしゃらにやる何かも、やらされてするもので埋め尽くしたくないというのが営みと仕事を曖昧にしたいということの本質。

 

そして’社会’というものにどっぷりつかって、自分じゃ何もできなくなってしまうということへの焦りというか、なんか違うんじゃない?感。

 

例えば、季節に寄り添って保存食を仕込んだり、野菜を作ったり、木工に勤しんだり、自然と戯れたり、文学に夢中になったり、情緒的な日々を生きる営みとして紡いで行きたいと心底、願っていたりするのが私。

 

でも、あれ?それって具体的にはどんなことなんだろうって、シンプルなことなのに難しく考えちゃったりするものだからたちが悪くて。

 

これでも全部を説明できてはいないと思います。何も原始時代のような暮らしをしたいと言っているわけではないので。

 

現代社会では(少なくとも日本では)、先立つものがなければ、まず生きられない。お金を稼いで住む場所と食べるものを得なくちゃいけない。後、税金も払わないとだし。

 

それは、どんなに自然に寄り添った生活をしようと変わらないけれど、自然に寄り添う営みの度合いが大きいほど、心が疲弊するほどに切羽詰まった働き方と生活をしなくて済むような気がしています。

 

これは欲というものをどれだけシンプルにするかということにも繋がっていって、日本のような選択肢や物が溢れている社会でどれだけシンプルな選択をするかということを考えることでもありました私の中で。

 

 

私は地方都市出身で都会ではないけれど、田舎とも呼べない場所で人生を過ごしてきて、私は自分の手で何かを作り出して、それを糧に日々を営むという方法を長年ないがしろにしてきたような気がしたのです。

 

言わば、誰かが作ったものを右から左へ流し、生きるために働くと言いながらそれはどこか空虚感が漂う作業のようなものだと感じてしまっていたのです。

 

さかのぼれば、学校で教わったことの大半は、営むための術ではなかったような気がして。

いつも何か違和感があって、どうしてこんなに心地が悪いんだろうと、もがいていました。

 

そんな中で、やりたいことや達成したいことの一つに「半自給自足」が加わっていました。それが言わば、生きるための仕事と営みがあいまいになった状態と言えそうで。

 

もちろんそれだけじゃなくて、仕事としてできることはチャンスや機会が巡ってきたときには挑戦したいし、がむしゃらに仕事をすることもあるかもしれない。

 

でも、それが文化的で情緒的で自然的、工芸的、伝統的なものからの発生であることを自らに期待しています。それが様々な問題を抱えている現代社会に何かしらの貢献ができる一つのエッセンスにもなるかもしれないと。

 

難しいことばかり考えなくても、楽しむことと、問題と向き合うことをバランスよくこなしながら営んでいく。

 

そんな営みの基盤には自然との触れ合いが必要不可欠だということを私という人間は求めています。

いろいろな生き方があるのでそれぞれですが、少なくとも私は都会での暮らしから自然の中での暮らしを選ぶ道を歩みだしました。

 

でも、0から1にするのがすごい大変なんですよね…。1にしてしまえば加速度を増して、いろんなことが進んでいくもの。まずはできることからはじめて。意外にもできることはたくさんあって、そして勉強することもたくさんあって。一つ一つ達成していこうとコツコツ毎日を過ごしています。

 

そういう意味では、

 

「隣の芝生は青く見える」という典型なのかもしれないけれど、田舎の農家出身の人がたまらなく羨ましかったりします。もちろん大変なことはたくさんあると思うんですが、中身のある暮し方という価値を私個人では感じるのです。

 

自然と寄り添った暮らしということを当たり前にしていて、営みにしている。そしてそれを先立つものに変えながら。

 

とても浅く聞こえてしまうかもしれないけれど、私は農”業”をしたいと言っているわけではなくて、小さな自分のための農園を当たり前に持てるような暮らしをしたいのです。「自給農法」というものですね。それはいつか必ず実現させるつもりで動いています。

 

スローライフやロハスと言えば聞こえはいいですが、飾られた言葉を借りずに、当たり前の日常にもっと、自然を添えておきたいだけ。実際は自立した泥臭い暮らし方でもあると思うのです。そこが現代でどう洗練させたナチュラルな暮らしをできるかを考えるのも楽しいじゃないですか。

 

そしてクリエイティブに過ごしたい。自ら考えて、作っていく日々はもちろん大変だけれど、その大変さが夢中になれる大変さであれば健康的な心で過ごせると思うのです。

 

都会に住んでいても(都会といっても「とかいなか」と呼ばれている地域だけど)、もっとナチュラルな暮らしというのを日々実践して行きたいと思います。見つけながら、取り戻しながら。

 

目を閉じて遥か先の未来をイメージしてみるとテクノロジーを駆使した洗練された自然の中の暮らしが見えてきたりします。

 

科学と自然が調和した理想的な世界は、まず情緒的な側面からアプローチしていかないと始まらない気がします。