「尊重する」というのは、前提に理解がないと成立しないと思わされていることは多いかもしれないけれど、本当の尊重とは目の前にある”事象”をただ、そのまま中庸に受け止めることでしかないと思っている。受け止めて流れていくもの。
「無知の知」という言葉がある。哲学者ソクラテスの言葉。
「私は、私がそれを知らないことを知っている」という意味。 知ったつもりにならずに、自分が未だにわからないことはわからないと認める姿勢が大切であるということを表している。
私たちが知っていること、つまり常識とか既存の概念とか教育とかで培われた洗脳、そういったものをかき集めても、この宇宙の0.1%をも満たしていない。他の99.9%は知らないということ。
それなのに、その小さな枠の中に収めようとして、そこに収まらないものは拒絶したり、見世物として扱ったり、排除したり、なかったことにしたり、ぞんざいに扱ったりする。
そして、「理解させてみなよ」と、寄り添うつもりもわかろうとする意思もないのに傲慢な態度で、フェアではないエネルギーを放っていた地の時代の社会。
信頼も歩み寄る姿勢も形成されていない中で、半ば強制的にマジョリティという武器を持って、それが全てであるかのように振る舞う。そこに愛なんかない。それでも立ち向かって死んでいった人たちがたくさんいる。
大事なのは自分が知らないことがたくさんあるんだという謙虚な姿勢。それは事も、科学も、人においても。
多様性を支えるもの
多様性という便利な言葉がある。多様性を認め合い尊重し合うということが大切だと。
こんなこと、本当はただの本質でしかない。あえて言葉にする必要性もない。でもこの言葉が独り歩きしたのは、それだけ利己と利他のバランスが崩れ、自分と誰かの分離が引き起こされ、優しさや思いやり、配慮が失われそうになった一時がこの世界であったから。
では、なんでもありなのかと。歪んだ解釈で揚げ足を取ろうとする人もいる。めちゃくちゃなことを言いだして、これもあれもそれもいいじゃないか、それならゴミを捨てることも命を奪うことも多様性の一部になるじゃないかと…。
いや考えればわかること。ハートの声を聴けばわかること!!
その多様性の中で、その振る舞いに、その事象に、その人に、愛を持って周囲への調和を重んじているエネルギーが帯びているかということが多様性を形成する上で大切なこと。
これは実際に自分で感じるしかない。体験するしかない。関わるしかないし、見るしかない。
でも、無秩序に多様性を主張して、否定したり、誰かの人権を侵害して一方的に成り立つ多様性はないということをわかっていれば、単純に物事は見えてくる。
だから不思議に思うことがある。自分が知らないことが山ほどあるということを知らない人ほど、見えない何かにいつも怒っているように見える。
本当は攻撃したり、否定したりする必要性すらないはずなのに。ただ、あるのは今日一日、関わった人たちとの大切な時間だけだ。
知らないのに、悪意ある想像だけで知りもしないことを否定して誰かを傷つける権利は誰にもない。
”愛・調和”そこが抜け落ちているなら、それは尊重し合える多様性の一部ではなく、自然淘汰されていくものだということがわかる。
自然界は一見、無秩序な多様性に満ちているように見えるけれど、ある法則性が働いていて、無秩序な秩序を形成している。
無法地帯に見えて無法地帯ではないのだ!!
自然の摂理はなぜこれを生み出だしたのだろうと思うようなバグを作り出すことがある。
でもそれは、必然的なもので、この世界に調和というバランスを整える仕事(神事)をするために”自然の摂理”が意図的に生み出した”自然の摂理から外れた事象”なのだ。