苦悩を修行と捉えられるくらいには大人になれたような、なれていないような。理性的な自分が感情的な自分をいつも見守っているようなそんな感じにはなれた気がします。
何をもってして大人と言えるのかは謎ですけど。
論理的な自分が情緒的な自分を温かい心と冷めた瞳で見つめているような感じとも言えますね(笑)
「まあ、いいんじゃない?今だけなら」って、ちょっと冷たくあしらうくらいの理性的な自分がもうひとりの感情垂れ流しの自分に言っているみたい。「そんなに怒らなくても、そんなに悲しまなくても」って。
公の場ではポーカーフェイス、冷静沈着、読めないとかミステリアスとかそんなことを言われたことも多いのだけれど、私自身はそんなことはどうでもよくて、私の中に両面が存在しているということに過ぎない。
感情的ですごく情緒的(哲学的)な自分もいる一方で、理性的で論理的(現実的)な自分がいるだけのこと。
誰かの目には内向的に見えても、誰かの目には外向的に見えているなんてこともあるわけですよ。物静かだと思ったら、熱い思いを語っていたりとか。
これって、とても自然なことだと思うんですよね。自分でいうのも変ですけどバランスがいい方なんじゃないかなー。お花畑でふわふわし過ぎるにはちょっと課題が多すぎる世界ですしね。
情緒性と論理性のバランスはとても大切だと思います。偏り過ぎてもうまくいかないですから。
そんなわけで、自分の性格を決めつけたり、自分のキャラクターを決めつけずにその時々で素直に自分を表現しているだけなのだ。
今の自分が誰かの目にポジティブに映っていればいいなって思うけれど、
誰にも言いたくない過去も、誰にも打ち明けられない悲しみも、誰とも共有できない私だけの孤独も、それはそれで自分の一部なのと一緒です。
悲しいとか、苦しいとか、怒りとかそれらはネガティブなエネルギーなんて言われてしまうものだけれど、それを必死に押し殺しても生まれる感情はもうそこに存在しているわけですよね。
それよりも、その気持ちをその時々でどうやって手放すかのおまじないを編み出して自分なりに使えるようにするのが大事だと思うんです。
例えば、私の場合はもうとにかく寝るんです。悲しい時は。
悔しい時は、引き出しにしまう日記に書き連ねます。そして、悔しい、悔しいとその感情を思う存分味わってストレスにしないようにするんです。
まぁ、他にもいろいろとおまじないみたいな魔法みたいなものはあるんですけど、さすがに裸にはなりたくないので、話して恥ずかしくないぐらいのものしか列挙できないですけど(苦笑)。
…
まっさらな草原が広がる気持ちがいい風が吹き抜ける場所で、深呼吸できれば幸せはきっと感じられる。
その場所がいつも変わらずに傍にあるわけではないとしても、時々たどり着けたらそれで上出来だよって思うわけです。
はっきりした答えを導き出す頃には、私の魂みたいなものは少しだけ磨かれた場所にいるのでしょうか。でも、それがいつになるのかはわからないし、そんなときは来ないかもしれない。
確かなのはきっと、私という人間が生まれたのは私という人間を体験するためだということ。それなら、生まれる感情や境遇はとても必然的なものに思えてくるので、
湧き出てきた感情や表現される性質はとりあえず、そのまま味わっておく方が無難ですよね。背伸びしても、わかった気になっても、結局は生まれてくる感情がすべてを、物語るんですもん。
これが今の私のフェーズなんだなって。
雨ばかりじゃ植物は育たないけど、晴ればかりでも育たないでしょ。ほら、なんかうまいこと言った気になってるけど私。人もそうだし何事も同じかなーって。
気分の波や自分の中にある両極端な面も、とても健全なものに思えます。
「雨降って、晴れたとおもったら、時々曇って、土砂降りの雨で、快晴、それで上出来。」
それで地球が回ってる、季節も巡ってくる。春が待ち遠しくなりましたー。